translated by machine

Mystandard

Episode 22 中野一憲(ナカノアパレル副社長)

東京、山形、中国をベースに
カットソーの縫製技術を更新しつづける

 



23区の25周年をセレブレートする特別インタビューシリーズ「My standard 25th」。第22回目にお迎えするのは、縫製業の枠を越えて活動するナカノアパレル。自由な発想で開発にも力を入れ、長期に渡り23区のパートナーを努めてきた「ナカノアパレル」の中野一憲 副社長のインタビューです。


 

ナカノアパレルという会社

 

中野 一憲(Kazunori Nakano):株式会社ナカノアパレル代表取締役副社長。1999年、ロンドンにて服飾の勉学のために渡英。2002年より、ベルギー・アントワープにて、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクにて勤務。帰国後、2005年より株式会社ナカノアパレルに勤務。
photo: Rakutaro / interview & text: Kana Yamamoto / edit: Yuki Ishida

 

ー “攻めの縫製業”として活躍されているナカノアパレルですが、簡単にご紹介をお願いします。

東京にショールームも兼ねた事務所を、中国と山形に自社工場を持ち、3拠点で縫製業を運営しています。日夜モノづくりをしている会社です。弊社の特徴でもあるのですが、12名のパターンナーが在籍しており、サンプルを作ったり、工場へ伝えるための試作がすぐにできたりする体制になっています。その他にも、在籍する30名のうち半数以上がモノづくりの人間なんです。

山形工場は、40年来続く縫製工場を6年前に買収し、現在は約100人強のスタッフが働いています。そのうち、ベトナムからの研修生が30名ほど。工場が始まった当時のスタッフもまだいらっしゃって、若い人への技術の継承がなされています。また、弊社でしかできない縫製技術を、東京と連動して日々研究しています。

 

 


平均年齢の若いナカノアパレル。主力となるの20代後半~30前半のメンバーが、一体感をもって業務にあたっている様は活気に満ちている。「経営陣との距離も近く、提案もしやすくて風通しが良いです。山形(写真)と東京はディスプレイ越しに常にライブ中継で繋がっています」(営業主任 北森光さん)

 

—山形工場には企業内保育園が併設されていて、地域コミュニティの形成に積極的に取り組まれ、近年、メディアでも注目されていますね。

山形工場の向かい側に「ナカノビレッジ」という名称で、研修センター、宿舎(寮)、企業内保育園を作りました。山形県内の就労人口は、2020年には現状の7割まで落ち込むと予測されています。どんどん働く人が減っていく時代に、海外からの労働力に頼るだけでなく、都市部からの希望者も迎え入れていかなければならない。人材育成や人材確保を目的とした環境作り、就労活性化の一貫としての取り組みです。

中国工場はもう14年目になります。15、6年前、だだっ広い敷地に立たされて「ここに工場作るぞ」と言われて、どうしよう…と思ったことを思い出しますね(笑)。中国には、上海オフィスと無錫(中国江蘇省南部の商工業都市)に工場があります。上海から電車で1.5時間くらいの湖の畔に工場はあるんですよ。

 


東京オフィスをリニューアルし、ショールームを作ったのをきっかけに、スタッフのモチベーションも上がったそうだ(photo: IKUNORI YAMAMOTO)

 

—「モノづくり」のDNAはどこからきているのですか?

1986年に、当時は「中野商店」として両親が奈良県生駒市で縫製工場の一室を間借りして商売を始めたんですね。工場を自分たちの手でやるという気持ちは、その時から父親の中にずっとあったと思います。いつも変わった機械を導入したり、新しい技術を独学で勉強したりしていましたね。

結局、自分たちでモノを作らないと、生き残れないと考えていたんだと思います。自社工場を持っていると、本当の意味でのモノづくりが見えます。どういう指示をすれば、右(営業)から左(工場)へ円滑に進められるのか、というところまでデザインできるのです。その渡し方に無理があると、工場にしわ寄せがいってしまう。工場が苦労しないとできないモノづくりは、結局、自分たちに跳ね返ってくると考えています。受け手のことまで考えた仕事を徹底するようにしています。

 

ナカノアパレルのオリジナル技術

 

 

—ナカノアパレルさんの代名詞といえばカットソーですね。

ええ、父親がずっとメリヤス(機械編み布地)型でやってきたので、そのモノづくり基本になっています。ナカノアパレルがOEMの業態にあるのは違いないのですが、30年前当時から、自分たちで素材開発も行ってきました。最初はとんでもないものしかできず、いろいろと苦労はありました。それでも、クライアントからの要望を解決するために、一歩踏み込んだところでのカットソーを作っています。

—そのアイデアはどのように生まれてくるのですか?

閃きに近いです。常日頃、スタッフと街中をぐるぐる回りながら、珍しいものや面白いものを見つけたら想像を膨らまして、どんなことができるかと話し合ったりしています。

 

 


大相撲 南陽場所のスタッフTシャツを制作。場所が終わっても日常で着ることのできるデザインを依頼された。タグに南陽市の色を使用している

 

ー 23区とのお付き合いの始まりは?

我が社の中でも一番古くお付き合いをさせていただいいると思います。当初、自分はまだ学生でしたが、何周年記念かのノベルティ用のイルカのぬいぐるみから始まったと聞いています。確かに記憶の中に、ぬいぐるみがいっぱい家にあったのを覚えているんですよね(笑)。それで「ウチはぬいぐるみ屋さんじゃないんですよ、カットソーを作っているんです」というところから取引が始まったんでしょうね。

ー 中野さん自身が23区と関わるようになったのはいつ頃からですか?

「23区の元事業部長の江頭毅さんがMDをされていた時代から担当させてもらっています。当時のエピーソードとしては、その頃に23区のカットソーのデザイナーだった方に鍛えてもらった思い出があります。思い入れのある商品はたくさんあるのですが、一つ挙げるとすればコンパクトヤーンテレコです。僕が仕事を覚えた頃に、すごくきれいなテレコ(リブ編み)生地を作ってやろうと、糸から開発したものです。それが23区で飛ぶように売れたそうで、手を変え、品を変え使っていただきました。仕事が楽しくなったきっかけの商品であり、開発の楽しさを実感しました。「置いているだけで人が吸い寄せられる」と言っていただけたことは、今でも忘れられません。

 


「23区の場合は、素材レベルから商品開発をする案件が多いですね。素材へのこだわりを感じます。いつか、ナカノアパレルの技術と23区のコラボで“MADE IN YAMAGATA”な商品を作ってみたいですね」(北森さん)

 

ー その後も革新的な縫製技術で、ナカノアパレルならでは商品開発をされていますね。

針は布帛用かジャージー用のもの、どちらを使えばいいのか…そこから考えないといけませんでした。サンプルが上がってきては、ああ、これじゃダメだったんだ…という繰り返し。それでも、23区からチャンスをいただき続けられたのが大きかったんですよね。2回目、3回目と続けることによってはじめて、技術をアップデートしてより完成へと繋いでいけるんです

 


襟ぐりの二連ボールチェーン。当時は、機械で生地にボールチェーンやビーズを取り付ける技術はなかった。23区とのビジネスにより、中国生産で自動化を実現した。

 

ー 近年での記念碑的な商品といえば何でしょうか?

一緒に作らせていただいている、4mmバインダーを施したタンクトップですね。襟ぐりの縫い幅4mmを実現した技術です。ジャージのバインダーの通常の縫い幅は6~8mmです。だったら4mmにすれば勝つな、と。これは機械でないと制御できないので器具を作るわけなんですが、職人からの「できるわけないよ」から始まりました。そういうことの繰り返しでやっと完成したのですが、1年以上かかりました。

さらに、ちゃんと縫えるようになるまでに2年。そして、これも技術を継続するためにはオーダーがないとダメです。最初にオーダーをくれたのが23区だったんです。社内でも、このプロジェクトをきっかけにみんなの気持ちが変わってきた実感がありました。挑戦することで一体感が生まれましたね。

 


23区のアイコン的存在、「シャツ」のインナーとして、今までにない繊細な仕上がりは多くのお客様に支持された。「バインダー部分が4mmになると断然、繊細さや上品さのある仕上がりになります。新しい技術が生まれると、我々から提案型のモノづくりができるのです」(パターンナー 竹澤祐貴子さん)

 

縫製工場の未来

 

ー こうした発明心は、社員みなさんが共通してお持ちになっているのが伝わってきます。

山形の工場ができてからなんです。縫製の技術開発を行い、お客様に提案ができるようになったのは。それまでは、「日本に工場があります」という部分で差別化を図っているだけにすぎなかった気がします。

ー 縫製の多くが海外発注の現在、日本の縫製工場はこれまでになく大変な時代を迎えていると聞きます。

MADE IN JAPANというのは、日本で縫えば何であろうがそうなりますよね。そういう見方ではなく、日本製かつオンリーワンであることがMADE IN JAPANのクオリティじゃないかと常に考えていて。“ここでしかやれない”という付加価値を、どれだけ与えられるかということじゃないかと思うんです。

ー その先には、日本の工場の明るい未来があるはずだ、と。

生き残れると思います。そのためには挑戦しつづけないといけない。良いアイデアは、すぐに行動に移して手を動かしてみる。父親のモットーなんですよね。そこに、そのアイデアを使ってくれるお客様がいるから、未来に向かって盛り上がれるんじゃないかと思います。

ー 今後、23区と一緒にやってみたいことはありますか?

実現するかどうかは置いておいて、GINZA店にミシンを持ち込んで、ウインドウの中で、お客様からオーダーをもらったらその場で縫って仕立てる、なんてできたら面白いだろうなって、いつもお店の前を通る度に考えています(笑)。店内がうるさくなっちゃって難しいですよね。

ー 25周年を迎えた23区へのメッセージをお願いします。

 


「23区のみなさんは技術的にハイレベルなのですごく勉強になります」(竹澤さん)

父親の時代の取引から23区とのモノづくりが始まって、そのバトンが僕に渡されて、今度は自分が若い世代に渡していくところにちょうど今います。23区もまた世代が変わってバトンタッチをし、その歴史は25年間刻まれてきました。その道程で我々との取り組みがこうやって語り継がれていく。高いレベルで僕たちが一生懸命がんばれるのも、23区から、厳しさやハードルを与えてもらっているからなんですよね。そういうこと全てを含めて、バトンを繋いでいけるということがとても素敵だなと思います。

 


ARCHIVE